宮廷養生茶の歴史

宮廷養生茶の始まり

養生茶の歴史は、一般には中国の唐時代(618年 – 907年)に始まったと言われています。しかし、「広雅」(三国志の時代の辞典)の記載によれば、西漢(紀元前206年 – 8年)以前には中国ではすでに茶葉を摘み取って茶餅を作り、それを炙って赤色にした後で粉末にして、甕の中に入れて熱湯を入れ、ネギや生姜や桔梗を配合して飲んでいたと言われています。これらは、現時点で確認できる養生茶の最も早期の記載であり、この時点ですでに後の時代の発展の萌芽がみられています。晋時代の孫楚(?- 293年)の「出歌」には、茶と生姜やシナモンを同時に飲む習俗が記されています。また、梁時代の陶弘景(456年- 536年)の「神農本草経集注」や唐時代の「千金要方」(652年)にも、養生茶や生薬を茶の代わりに飲むことに関する記載がみられます。それ以降、多くの新しい養生茶が開発され、王朝の正式な書籍や民間の小説、宮中の食事のメニューなどにも養生茶の記載がみられます。

宋元の時代に至るまで、中医学における養生茶の運用は大きく発展しました。臨床の場で病気の予防や治療に応用される中で、養生茶に関する貴重な経験が積み重ねられていきました。公的に編集された「太平聖惠方」(992年刊行)「聖済総録」(1111年-1118年に刊行)などの医学書にも、民間で用いられていた養生茶が広く採用されています。

明代の初め、高官が編集に関わった「普済方」(1390年刊行)の中には、「薬茶」という専門の項目が設けれ[細野1] ました。薬剤の専門書として世界的にも著名な「本草綱目」(1596年)でも、茶の効能について論じられています。また、養生の専門書である「遵生八箋」(1591年)の中にも、茶の採取法や淹れ方、茶道具などに関する詳細な記述があります。

清代(1636年-1912年)になり、養生茶に関する記述は非常に多くなりました。「本経逢原」「茶史」「続茶経」などの著書の中に茶や養生茶に関する記載が見られますが、その中でも温病という感染症の治療で有名な葉天士(1667年-1747年)が作った養生茶は特に有名です。
 清時代の養生茶は、特に宮廷で好まれました。養生茶を活かした病気治療や健康管理は、王侯貴族たちに大変歓迎されたのです。清の宮廷における養生茶は、中国伝統医学における診断と治療の理論である「弁証論治」を基礎として発展し、それによって養生茶の使用法や治療効果も大きく向上しました。現代に遺された宮廷医学のカルテの中にも、薬剤茶に関する記述が多く登場しています。それらは、宮廷内で養生茶が非常に重視されたことを示しており、同時に養生茶が実際の臨床の場での活用されていたことの実例を示したものと言えます。清時代の宮廷での養生茶の活用は、伝統医学理論の応用であると共に、中国伝統医学の多様性を示す好例となっています。

近現代の中国では、養生茶の効能はますます多くの医療者から注目されるようになっています。現代中国で制定された「薬典」(1963年)では、養生茶に対する規定がなされており、養生茶の収集などが促進されました。様々な著作や雑誌などでも養生茶に対する記述がなされ、養生茶の蒐集や整理も行われ、更なる発展の基盤となっています。また、現代科学的な研究も多く行われ、新たな知見が集積されています。
 現在、養生茶は古来より伝わる独特な治療法として世界中から注目され、新たな発展の段階に至っているのです。

六安茶の歴史

六安茶について

「宮廷減肥茶・プレミアム」で使用されているのは、数ある中国茶の中でも最高級とされる茶葉のひとつ「六安茶」です。 ここでは、六安茶の歴史と効果についてまとめます。

六安茶の歴史

六安茶は、宮廷に献上されてきた茶葉です。 特に清の時代には、皇帝が飲む日常的なお茶として珍重されました。
安徽省の六安州と霍山県の両地域で生産された六安茶に関する記載は、遅くとも漢代には確認されています。昔は、霍茶、瑞草魁、仙芽や天柱茶などの名前で呼ばれましたが、明代に六安茶と呼ばれるようになり今に至ります。
明代に、六安茶は宮廷に献上する「貢茶」になりました。清代になっても、浙江省や福建省などといった茶の大生産地と同じように、朝廷は六安茶の産地を重要視していました。清代には、六安茶は「歳進」「年例貢」の二つの方法で朝廷に献上され、茶の品質によって多くの種類に分けられていました。「銀針茶(枝の先のわずかな葉)」「雀舌(葉がまだ開いていないもの)」「梅花片(枝の先の二葉)」などの等級に分けられていたことが確認できます。毎年、皇帝の誕生日、冬至、春節、端午節などの節句の日、他にも皇帝の地方巡行の際などに、総督などの地方官僚の手によって宮中に献上されました。
清王朝の宮廷に献上する「歳進」の六安茶には、特に多くの注意が払われました。献上する量は時代によって変化し、最も多いのは1736年の720袋でしたが、その後は毎年400袋が通例となりました。宮廷に献上する際には、厳格な規定に従う必要がありました。規定通りに梱包し、最後には龍の模様の装飾を施した布で包まれて宮廷に運ばれました。
清時代の六安茶は、皇帝や妃などの貴人が日常的に飲用する代表的なお茶となりました。表面に「六安」の二字が記された茶筒が特別に用いられていました。また、皇帝が外に出かける際には、六安茶は必ず携帯されていました。

なぜ六安茶が選ばれたのか?

多くのお茶の中から、皇帝の日常的な飲み物として六安瓜片が選ばれた理由は、いったい何なのでしょうか? 大きく二つの理由が挙げられます。

宮廷の食習慣と
茶葉の効能

清王朝の統治者は満州族であり、飲食に関しても満州族の習慣が守られていました。彼らは乳製品を好み、ミルクティーを愛飲しました。これは、満州族の故郷である寒い土地での寒さ対策でしたが、カロリーが高く味の濃いものが多く、体内に余分な脂肪などがたまりやすくなってしまいます。その対策として、皇帝や皇后は六安茶を好んだのです。
六安茶の効能に関して、「続金陵瑣事」の中に次のような記載があります。陳公家の公子が急病になった際、様々な治療が行われました。しかし、効果がありませんでした。孟大夫は、公子は病気ではなく飲酒や乳製品の取りすぎであると診断し、濃い六安茶を飲ませました。すると、公子はすぐに健康を取り戻したのです。この出来事は、六安茶で身体を調節した好例です。六安茶の持つ体の滞りを消す作用は、貴人の健康を保つために活用されていたのです。

儀式

六安茶は、宮廷の儀式にも用いられました。外国からの使節に対し、六安茶が贈られた記録があります。また、朝廷の宗教的な活動の中でも六安茶は使われていました。茶は仏像に備える供物の一つであり、お香の中にも配合されていました。
また、六安茶は生薬を配合して養生茶としても用いられていました。六安茶の薬効は唐代の末期には既に知られており、明代にはさらに解明が進みました。消化を助け、脂っこさを除き、体内の食の滞りを打ち破り、食べ過ぎによる胃の膨満感などの症状を除くこと等、六安茶は医薬品のように用いられるようになってきました。それに加えて、生薬として用いたり濃く淹れて飲むなどの方法で、六安茶が病の治療にも用いられることもありました。六安茶を配合した養生茶である宮廷減肥茶は、清の宮廷の中で用いられる薬剤の一角を占めるまでに至り、それに関する記述も多く遺されています。  清時代の宮廷では、茶葉の薬効の知識に基づいて、健康管理の一環として六安茶が日常的に飲まれ、医薬や宗教行事などの多くの領域でも用いられていたのです。